NGOと白血病の子どもたちの支援
佐藤真紀(日本国際ボランティアセンター)
経済制裁の非人道性
2002年の9月。念願かなって初めてイラクへ行くことができた。当事のイラクは、表向きは外国からの支援を一切拒否していたので、NGOが関わることは非常に難しかった。ビザの取得も極めて難しいし、イラク国内では、政府の役人が必ず見張り役でついてくるような有様である。
しかしそんな中でもイラク政府と契約を結んだ欧米のNGOが10ばかり人道支援のためにイラク国内で活動していた。イラク赤新月社が、人道支援の窓口となり国際NGOの取りまとめをしていた。JVCは1991年の湾岸戦争時に、このイラク赤新月社を通した緊急救援活動を行ったこともあり、再びイラクへの支援の可能性を検討し始めていた。赤新月社の国際部の部長のジャマル氏(現総裁)は、イラクが求める支援を以下のようにまとめた。
1) 医療技術への貢献
⇒日本からドクターの派遣や手術の実施
2) 白血病などの難病の治療を日本でして欲しい
3) 医療のリハビリ
⇒建物の修復や、医療機器、ナースなどのトレーニング
4) メディアなどへの訴えかけ
劣化ウランの件もあり、NGOとして、白血病の子どもたちの支援の可能性を探ってみる。血液学の専門医である井下医師に相談してみたところ、「一人の患者を治すのに数千万円かかる。抗がん剤は、継続して使ってようやく患者さんに効果が出てくるものだ。途中でやめなければいけないのならかえって、子どもたちに苦痛を与えてしまうだけだ。中途半端に関わらないほうが良い」とのアドバイスだった。
バグダッドのマンスール教育病院や、サダム中央小児病院に行くと、医師が病棟を案内してくれた。「何種類かの薬を併用しなくてはなりませんが、経済制裁で手に入りません。今のイラクではどうしようもないのです。」
この経済制裁が一体どのようなものかよくわからなかった。確かにイラクがクウェートに軍事侵攻した1990年の8月からこの制裁が始まった。1996年までは特にひどく、イラクは原油を売ることも出来ず、商品も輸入することもほとんどできなかった。この経済制裁のせいで命を落とした人はこの間、100万人を超えているというのである。あまりにもひどい状況に国連制裁委員会は、「食料のための石油」というプロジェクトを1996年から開始した。これは、原油を売ったお金はすべて国連が管理し、約半分は、国連の運営費、湾岸戦争時の賠償金などに充てられ、残り半分が食料や医薬品などの人道物資購入費に充てられる。1995年には半年で20億ドルの上限、1998年には半年で52億ドルまで上限が上げられた。そして1999年には上限が廃止される。2002年からはスマートサンクションといわれる制裁になり、軍事物資に転用できないものならイラクは何でも購入できるようになったのだ。
イラクはこれで原油の輸出の売り上げは湾岸戦争以前と同じレベルに戻ったのである。少なくとも食料や医薬品は十分に行き渡っているはずだった。
国民の生活は当然よくなるはずなのだが、ところがそうでもない。例えば5歳以下の子どもの死亡は相変わらず年間10万人程度でむしろ増えている。イラクの貧しい家庭の子どもたちは相変わらず死んでいってしまうという皮肉なものだった。食料や粉ミルクだけが供給されても、赤ちゃんが下痢になれば、薬や適切な処置をしなければ栄養失調で死んでいく。水が悪ければ当然感染症になる。栄養がなければ感染症になりやすいといったまさに悪循環で、イラクはちょっとやそっとじゃ状況は改善されないところまで来ていた。
この、人道的に配慮された経済制裁は、イラク政府には一切金が行かないシステムなので、社会主義的なイラク政府の福祉政策はなり行かず、公務員の給料もろくに払えない中で貧困層の暮らしを圧迫していたのだった。
白血病に至っては、薬がこなかったのは、抗がん剤は、化学兵器に転用できるというのが理由で制裁の項目になっていた。医者に聞いてもどの薬が制裁の対象になっているのかよくわからないとのことだった。実際、国連の制裁委員会の気まぐれとも言うべきか、倉庫に差し押さえられてしまうこともあり、来たり来なかったりすることが良くあるというのだ。そんな状況なので、言ってみればイラクでガンとか白血病の治療はほとんどまともには行われていなかったと考えるのが妥当だろう。
白血病の治療は、簡単ではない。夏目雅子やアンディ・フグといった有名人が日本で治療しても治らないときは治らない。NGOが少ない予算で効率よく支援するのは至難の業である。そんな中でも出来ることからはじめようと、白血病の専門書をマンスール病院へ届けることになった。医学書は、医師が知恵をつけると生物兵器を開発してしまう恐れがあるからこれまた制裁の対象となっていた。イラクの医師たちは毎週金曜日になると、モナッタベ通りの古本市に出かけては、医学書を買いあさっていた。しかしほとんどの医学雑誌は10年以上も前のものなのだ。
1月27日、専門書を持って病院を訪ねたときに出会った女の子がいた。
ラナちゃん12歳だ。イラクの北のモスルというところから入院していた。20日前に白血病と判明した。左目が充血していたが、元気そうで、絵を描いてくれた。日本の子どもが描いてくれた自画像をポストカードにしたものを彼女に上げたら、それを見本にして描いてくれた。血管には点滴用のチューブが刺さっている。小さな手で力強く握り締めた鉛筆で、日本の子どもの絵をコピーする。「どう、上手でしょ」とラナちゃんは得意げだ。横に自分の自画像を描いて手をつないでいる。「ラナちゃんは、、」私は「ラナちゃんは大きくなったら何になりたいの」と聞きたかったのだ。しかし、もしラナちゃんが「私は、死んでしまうのよ」と答えたらどうしようかと思いとどまったのだ。それでも思い切って聞いてみたら「私、大きくなったら先生になりたいの」と言ってにっこりと笑ってくれた。
しかし、医者は病室を出てエレベータに乗ったときに「今のイラクでは一年生きられればよいほうです」とため息混じりにつぶやいた。
JVCは、経済制裁の非人道性に反対の声を上げようと活動を開始したが、白血病の子ども達の支援についてはめどが立たなかったので、もっと一般的な赤新月社の産科病院の補修からはじめた。ほとんど医療機器は日本製のものだったが、湾岸戦争以降は日本の商社は撤退してしまった。スペアパーツがほとんどない状況だった。たとえば手術台の無影燈のハロゲンランプが切れてしまうとスペアがない。それでも、車のヘッドライトをはずしてきて何とか代用しているところが一生懸命でいい。
戦争と子ども達
戦争が始まった。4月2日。赤新月社の産科病院が空爆されたというニュースが入る。幸いほとんど患者はいなかった。
あのラナちゃんはどうしているのだろう。
サダム政権崩壊後、イラクに駆けつけて緊急医療支援を開始した。ラナちゃんを探している余裕はなかった。5月22日、国連安全保障理事会で、約13年続いた経済制裁を解除することが採択された。原油輸出を米英の実質管理下で再開する。企業も対イラク取引を自由にできるようになり、原油輸出代金を活用した復興ビジネスが動き出した。
ただ、言葉を変えれば今まで、人道支援は、イラクの石油を国連が管理することで行っていたのが、米英に置き換わっただけではないのかと思えないふしもある。とどのつまりは、国連VS米英という戦いだったのかもしれない。
6月になると徳島県立海部病院の井下医師を派遣し調査を行った。
マンスール病院にいくと、ルアイ医師は更迭され、代わりに選挙で選ばれたというマーゼン医師が、ガン病棟の責任者になっていた。「サダム政権崩壊後、倉庫を空けてみたら抗がん剤が出てきた。骨髄移植センターを作ったが、そこには専門医などいなかった。サダム政権が如何に患者を支援しているかということの宣伝だけにしかならなかった」という。
現実は、国連の制裁委員会の米・英のアドバイザーが抗がん剤を差し止めたのも事実のようだし、サダム政権が改めて米・英の非人道的なやり方を攻撃するために白血病を利用したということも否定は出来ないであろう。国連の制裁委員会のやり方がひどかったことは、むしろ国連という組織の内部告発に負う。国連のイラク人道調整官だったデニス・ホリデーや、後任のハンス・スポネック氏もあまりにもひどいやり方に抗議の辞任をした。
もうサダムもいないし、国連の制裁委員会も役割を失った。実際、NGOなどを中心に薬も急に入ってくるようになったのである。
ラナちゃんのことを知らべてもらった。カルテには、2月3日に、急性白血病で死亡と書いてあった。私が出会ってから一週間もしないうちに死亡していたことになる。彼女の家はモスルというバグダッドから500kmは離れた町だ。
モスルは、米英が定めた飛行禁止ゾーン(北緯36度より北と北緯33度より南)にはいるため、湾岸戦争後も継続して空爆され続けていた。ジャーナリストのジョン・ピルジャー氏によると「1998年7月から2000年1月のあいだに、米国空軍と海軍の戦闘機がイラク上空に3万6000回出撃した。そのうち2万4000回は戦闘目的であった。1999年だけで、英米の戦闘機は、1800発以上の爆弾を投下し、450以上の標的を爆破した。」という。
ラナちゃんも劣化ウランで被爆した可能性は高い。お父さんは、軍人だった。
それにしても、元気そうに見えたのにわずか一週間も持たなかったのだ。
後日、モスルに行ったときに遺族の方にお会いすることが出来た。
「ラナのような素敵な女の子はイラク中捜してもいませんよ。どうして、もっと早く助けてくれなかったのですか。」と詰め寄られた。
その当時は、開戦前夜だったので、ヨルダンを経由した闇の薬すら入りにくくなっていたのだろう。
戦闘が終結した6月、バスラの病院にも行った。そこで出会った男の子は、ふっくらとして栄養がよさそうだった。
一体どんな暮らしをしているのか見せてもらうことになって、車で家まで送ってあげた。
男の子は、まるで家畜小屋のような家に住んでいた。
父親は失業中で収入はない。2ヶ月後たずねていくと、彼も死んでいた。ふっくらして見えたのは、薬の副作用だったそうだ。姉は涙ながらに「戦争が始まってあの子の調子が急におかしくなりました。」と訴える。
担当のジナーン医師は「貧しい家庭だから定期的に病院に来ることもなかった。」と残念がる。
今回のイラク戦争をきっかけに発病したり、再発した子どもは少なくない。
戦争のストレスや、一時的な食料不足、薬不足で抵抗力が急激に低下したことが主な原因なのであろう。
バスラには、戦車が集められている場所がある。劣化ウラン弾が被弾した戦車もその中にあるのだろうか。その前では、子供たちがサッカーをしていた。
家を失ったストリートチルドレンは戦車をねぐらにしている。マフマディーアの街中には、明らかに劣化ウラン弾が被弾したと思われる戦車が乗り捨てられていた。ジャーナリストの豊田直己さんがガイガーカウンターで測定している。そんな戦車は子どもにとっては格好の遊び場だ。
UNICEFになぜ、子どもが戦車で遊ばないように指導しないのかと聞いた事がある。
「UNICEFは不発弾と地雷の回避教育は、行っているが、放射能兵器に関しては管轄外だ。WHOが担当している」といって取り上げる気はないようだ。今回も多くの劣化ウラン弾を米英が使用したという。なんら対策を講じないと2年後、3年後さらに白血病の子ども達は増えるであろう。
問題点
白血病は、白血球ががん化していく病気だ。イラクの場合、劣化ウラン弾の微粒子が体内に取り込まれてしまい、微量であるが放射能を出し続けるために、遺伝子が傷つきがん化していくと思われる。抗がん剤を用いてがん化した白血球をたたく。一方で、抗がん剤を用いれば正常な白血球もたたかれてしまうので、抵抗力、免疫力が低下するため、感染症などにかかりやすくなる。イラクではほとんどが感染症で命を落とす。特に今回の戦争の影響で、電力の供給が十分でなく、安全な水の供給や、エアコンによる空調などが十分に出来ず衛生状況が極めて悪いことが影響している。ハエが多く、暑さで子ども達の体力がどんどん消耗していくようだ。
また、看護師の数が圧倒的に少ないのも問題で、患者の親が子どもに点滴を行ったりして看護をしている。そういった意味では、患者の親に感染症予防対策を講じるなどの取り組みも必要である。
もともとイラクは無料の保健医療を目指していたので、病院に薬があればただで治療を受けられるが、薬の供給は20%程度だという。したがって、病院に薬がなければ、家族がどこかで調達してきて持ち込む。ブラックマーケットに出回っている薬は、非常に高価なものである。病院に足しげく通うのにも交通費がかさみ、経済的に大変だ。結果、家や家具などの財産を売り、借金がかさんでいく。今、イラク人の失業率は60%から70%だといわれている。貧困との戦いは過酷だ。
| 実際の支援 |
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| ■ 項目 |
■ 実際の支援内容 |
| 治療に関するもの
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●化学療法(抗がん剤の投与)
寛解導入療法
地固め療法
維持・強化療法
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抗がん剤の支援
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| ●支持療法→副作用を消す、感染症予防対策 |
抗生剤、抗真菌薬などの薬 |
病院の設備改善
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| ●検査室の支援→早期発見
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検査機材寄贈 |
●衛生面での改善→感染症対策
●血液バンクの充実
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トイレの補修
上下水道の補修など |
ターミナル・ケア
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| ●子ども達の心のケア |
プレイルーム
院内学級、交流 |
| ●家族のケア |
主に経済的支援 |
最後に
われわれは、援助に携わりながら多くのことを学んでいる。非戦という立場から援助することの意味は何であろうか。軍服を着た人たちだって、お金さえあれば、薬を買って、病院に届けることが出来る。自衛隊の派遣費だけで350億円以上が計上されるそうだが、これだけのお金とODAの15億ドルの無償資金援助を組み合わせれば、相当のことが出来るはずだ。でもわれわれが、イラクで活動を続けることは、まさに非戦の活動である。劣化ウラン弾の被害を世間にうたえることで次の戦争に反対し、劣化ウラン弾をしようすることへの反対を訴えている。戦争のない社会作りを目指しているのだ。
■募金先
郵便振替での募金 口座番号: 00190−9−27495 加入者名 :JVC東京事務所
イラク白血病支援とお書きください。