21世紀は戦争で幕を開けた。しかもそれは戦争とは程遠い、圧倒的軍事力を持つ軍隊による、赤貧の弱小国への一方的な侵略行為であった。アフガンに次いでイラクにも米軍の軍事侵攻が行なわれた。米軍がこの攻撃でも多量のウラン兵器を使用している可能性が指摘されていた。私は、99年と2000年にコソボをはじめセルビア、ボスニアでウラン兵器の放射能を測定するために現地調査を行なってきた。今回の軍事侵攻が始まってまもなく、かつてコソボ調査に同行した日本電波ニュース社のディレクターから電話があり、戦闘が終結した段階で現地入りするので同行するよう誘いがあった。私は即座に同意した。4月9日にバグダッドが制圧され、5月1日に米軍は組織的戦闘が終結したと宣言した。私たちは、5月19日に日本を発ち、10日間の予定で現地に向かった。同行したのは、ディレクターの島直紀、カメラマンの柿木喜久男、それに現地に先乗りしているコーディネーターの渡辺陽一の4人であった。
羽田から関空、ドバイ経由でヨルダンのアンマン空港に着いたのは20日の午後2時(現地時間)であった。私たちはアンマンで一日情報収集を行い、22日午前1時半にバグダッドに向けて出発した。陸路1000キロの旅が始まった。午前4時には国境についたが、通過に6時間を要した。私たちは、いくつかの国からの報道関係者の乗った車十数台で隊列を組み、砂漠の道を150キロ以上のスピードで駆け抜ける。イラクに入ってからの道路は、所々に米軍の爆撃の跡があるが、すこぶる快調に走ることができる。10年余りの経済封鎖にもかかわらず、インフラの整備は驚くほど整っている。
22日午後4時頃無事バグダッド市内に到着。15時間の車の旅であった。米軍による攻撃の間、各国の報道陣が滞在したパレスチンホテルに入ったが、停電が頻繁に起こり、我々の仲間がエレベーターに閉じ込められる騒ぎまであり、翌日には隣の小さなホテルに居を移した。我々は、バスラへ行く可能性を探っていた。アンマンでの情報では、途中の道は危険であり、道路の破壊状況も不明であり、車が故障でもすれば、明るいうちに到着できない可能性があり、その場合には盗賊団の餌食になるだろうと聞かされていた。しかし、バグダッドで集めた情報では、エンジントラブルさえ起こさなければ行くことができるだろうという複数の助言を得た。急遽日程を変更し、三日間バグダッドで調査を行ない、その後バスラに向かうことになった。この段階で日程は二週間に延長されることになった。バスラに向かう砂漠の道は、気温48度という過酷なものだった。
バグダッドの市内には、いたるところに米軍の戦車が走り回り、若い兵士が軽機関銃の引き金に指を当てて道路や主要な建物を警備している。バグダッド市民は彼らを見ないように歩いている。この威圧感はかなり厳しい。しかし、バスラに入ると兵士の影すら見ることが少ないのに気がついた。チグリス川の河畔にそびえるサダム宮殿は英軍の駐屯地になっており、その中には多数の兵士の姿を見ることができたが、市内にこれ見よがしに軍を展開することはない。長い植民地支配の歴史が、彼らを賢くしたようだ。
私たちは、前後二週間をかけてバグダッドとバスラの放射能調査を行い、6月2日に無事帰国した。たいした危険にも困難にも遭遇しなかったのは、単に幸運であったというほかない。実際、バグダッドのホテルの周辺では夜間に銃声を聞くことも稀ではなかったし、バグダッドを離れる日にはシーア派による大規模な反米デモも行なわれていた。
市街地に散乱するウラン弾
出発前に、米軍の攻撃中バグダッドに滞在していた写真家の豊田直巳氏からいくつかの重要な情報をもらっていた私たちは、5月23日の午前中に、計画省に向かった。町の中心部、チグリス川に架かる橋の袂にその建物はあった。その奥はサダム宮殿の地域である。建物は焼けてはいたが、砲撃による爆発の跡は見られない。壁には多数の孔があいているが、その孔の周囲を見ても焼けた気配はない。
建物の入り口は鉄条網が張られ米軍の戦車が一台警備している。我々は米軍の許可を得て敷地に入った。道路に面した側ではウラン弾は発見できなかったが、裏庭に入るとすぐに一発のウラン弾が目に入った。探すとあちこちにウラン弾の弾頭やアルミ合金のさやが転がっている。30分ほどで、弾頭7発、さやは30個余り発見することができた。建物の中に入ることは許可されていなかったが、中には恐らくおびただしい数のウラン弾が放置されているに違いない。豊田氏は建物の窓枠にあいた弾痕で放射能を検知している。
持参の放射線測定器(直径1インチのヨウ化ナトリウム(NaI)シンチレーター)を、弾頭に接触させると6μシーベルトほどの値を示す。市内の公園で測ったバックグラウンドは、0.06マイクロシーベルトであったから、およそその百倍ほどの値になる。
帰国後にこのことを話すとメディアはすぐに百倍だと書き立てるのには閉口した。ウラン弾頭は直径1センチ、長さ10センチほどの先のとがった円柱形をしている。測定器のほうは直径3センチ弱の円柱である。この二つを平行に並べたとき、ウランから四方八方に放出される放射線のうち、ヨウ化ナトリウムの結晶の中を横切ったガンマ線の数がカウントされる。その数が、環境放射線の百倍程度になったことを意味するが、そもそも均一な放射線密度を想定した測定装置で、このような局所的な線源の測定をすることには無理がある。測定器の種類やセンサーの大きさでこの値は変わってしまう。全ての放射線を数えるならセンサーでウラン弾を包み込まねばならないが、それは線源の放射線量を数えることになり、その場合の単位は単位重量あたりの放射線量(ベクレル)になる。シーベルトはその放射線を被曝する場合の影響を評価する単位であり、このような局所的な線源に使える単位ではない。このあといくつかの数値を扱うことになるが、それはあくまでも100倍程度の場合には非常に強い放射線、10倍程度であれば強い放射線、2倍前後であれば弱い放射線、という程度の指標として理解してもらいたい。
本来対戦車用の砲弾として開発されたウラン弾であるはずだが、少なくともバグダッドの計画省では建物攻撃にウラン弾が使われたことになる。ここで発見されたウラン弾は、私がコソボで見たものと全く同じもので、A10戦闘機から打ち込まれる30ミリ機関砲の砲弾であることは明白だ。この機関砲は一分間に3900発の砲弾を打ち出す能力を持つといわれている。
私たちは、短い時間にウラン兵器の使用実態の全体像を把握することを目指していたので、点から点への調査を行うのみで、面的な調査を行なう余裕はなかった。市内のほかの建造物にも同様の攻撃が行なわれたのかどうかを判断する材料はないが、少なくとも市街地の中心部で大量のウラン弾が使われたことは確かなことであり、建物の前の道路の側溝からアルミのさやを見つけたことからも、市内の子供たちの手の届くところに大量のウラン金属が散乱している可能性は充分にある。
水平に打ち抜かれた被弾戦車
私たちはウラン弾を被弾した戦車を求めてバグダッドから南に車で30分ほどのマハムディア地区に向かった。幹線道路に放置されていた戦車は北側に砲身を向けており、その正面、すなわちバグダッド方向から砲弾が打ち込まれていた。米軍は南からバグダッドに向けて進軍してきたはずであるから、この戦車は敗走中に撃たれたのであろうか。よく調べると、正面には水平方向に打ち込まれた貫通穴があり、さらに上部のハッチから打ち込まれ、内部の砲身を支える鉄柱で止まった跡も発見された。いずれの孔からも強い放射線が検出された。この戦車は二発のウラン弾を被弾したことになる。特に上部ハッチの内部の汚染が甚だしいので、その部分を濾紙でふき取って持ち帰ることにした。出国前に古川路明氏(四日市大学)の助言を得て私は濾紙を持参していた。スミヤテストである。
バグダッドの調査を切り上げてバスラに向かったのは5月26日であった。翌27日、私たちは現地のガイドの案内でバスラ南方のアブアルカシブ(Abu
al Khasib)地区に向かった。チグリス川沿いの、最も東側を通る幹線道路の両側には被弾して朽ち果てようとするいくつかの戦車を見ることができた。周辺は見渡す限りの砂漠である。しかしよく見ると砂に覆われてはいるがペルシャ湾岸まで続く巨大な湿原地帯で、雨季に水がたまるような場所では、表面には塩が析出している。それは、水溜りの表面の薄氷のようであったり、霜柱のようでもあった。歩くとパリパリサクサクと音がする。オリエント文明を崩壊させた塩である。
ペルシャ湾から上陸したイギリス軍は、湿原の中の一本道であるこの道路をバスラに向けて進撃したと考えられる。放置されている全ての戦車の砲身は南に向けたまま錆び付いている。この地区で、私たちは放置されている7台の戦車を調査し、4台の戦車から放射線を検知した。
ここで私たちは興味深い二つのケースに出会った。そのひとつは、砲塔と砲身とのわずかな隙間に砲弾が突き刺さったもので、その裏側に砲弾が鋼鉄を突き破って飛び出した孔が開いているものであった。おそらく、隙間を通過した砲弾は発火することなく十分な運動エネルギーを保持したまま内部を通過し、反対側から飛び出したものと考えられる。その弾道はほぼ水平であることも重要な点だ。第二のケースは、砲塔をかすめたウラン弾が、鋼鉄の表面を鋭く切り裂きながら跳ね返った傷跡であった。まるでバターをナイフで切ったように鋭利に切り割かれている。ウラン弾の威力を遺憾なく見せ付ける場面であった。
いずれの弾痕も水平に戦車に打ち込まれている。このことは、このウラン弾が戦闘機から発射されたものではなく、地上軍によって打ち込まれたことを示している。打ち込まれた戦車の表面には三本の筋が刻み込まれていることから、ロケットのように尾翼を持った砲弾であるように思われる。
さらに重要な点は、この幹線道路からバスラに攻め込んだのは米軍ではなくイギリス軍であったということだ。ブレアの軍隊の、陸軍も空軍も、ウラン兵器をこの地域に大量に使用したことは、明白である。
被弾した民間施設
この地域はイラク軍のバスラ防衛の重要な拠点であったのか、南北に走る幹線道路から東側のチグリス川沿いの集落に向かう枝道の周辺に、10両以上の戦車が放置されていた。戦車はそれぞれ数10メートルの間隔で配備され、そのどれもが南に砲身を向けたまま静まっていた。私は連日の50度近い気温の中の野外調査のためか、極端に体力を損耗し、そのうちの二両の戦車しか調査することができなかった。
私たちが二両目の戦車を調べ始めた頃から、周辺の住民が集まり始め、その中の一人の男が私を道路沿いの建物に案内した。建物の周辺にはバグダッドで見たのと同じウラン弾のアルミ合金のさやがいくつも散乱しており、建物にもたくさんの孔が開いていた。建物の中に入るとすぐに私の放射線検知器は反応し、0.1マイクロシーベルトを超えた。環境の1.5倍以上はある。
停電のため薄暗い室内を通り私は大きな鉄製のプールのある部屋に案内された。この建物は製氷工場で、その男はこの工場の工場長であった。
そのプールの鉄板の床二つの穴が開いていて、その孔に測定器を近づけるといきなり1マイクロから3マイクロシーベルトという極端に高い値を指し示した。工場長は天井を指差した。底にはいくつもの貫通孔があり、戦闘機からウラン弾が打ち込まれ、コンクリートの屋根を貫通し、建物の床を打ち抜いているのであった。コンクリートや鉄板は戦車の装甲に比べれば紙のように柔らかいため、ウラン弾頭は発火することなく貫通し、地下に打ち込まれたままになっている。特に、そのひとつの孔の周囲にゴマ粒ほどの黒い粒子が散乱していて、そこに測定器を当てると強く反応することに気がついた。私はその粒子の一部をフィルムケースに入れて持ち帰った。
私は不安げな工場長に事態を説明した。工場長はどうしたらいいのかと聞く。「この穴の開いた部分の鉄板を切り取り、地下に残っているウランを掘り出してから、もう一度鉄板を溶接すれば工場は再開できるだろう」「どのくらいまで掘るのか」「コソボで見たのは地下2メートルほどだったが、ここはそんなには深くないだろう」「そんなことをしないで、ただ孔をふさいだ場合、氷は汚染されるだろうか」「鉄板を通して放射線は出てくるが、水が漏れなければウランによる氷の汚染は防げるだろう。でも汚染源をそのままにしておくのは良いことではない」「どうしてよくないのだ」「ウラン金属は地下で水に溶けて周辺に汚染が広がるから、将来の子供たちに深刻な影響が出るからだ」「そんなことならこのプールの下の二発の弾をとっても意味がない。このあたりには一面に打ち込まれているからだ」。私は返す言葉を失った。
路面の弾痕
工場を出てその前の舗装道路を見ると無数の孔が開いている。数えて数えられないものでもないので無数とはいえないのだが、やはり無数といってしまいたいほど絶望的な数である。頻繁に行きかう車の合間をねらって測定器を近づけると0.1マイクロシーベルトを越える反応がある。どの孔にも同じ反応がある。2000年にコソボに行ったとき、イギリス軍がウラン弾処理作業をやっていた場所でも全く同じ経験をしたことを思い出した。この孔の下にはそれぞれ一発ずつのウラン弾が、金属の弾頭のまま埋まっている。それも2メートルほどの深さにである。
舗装道路の両側は砂漠である。その砂の上を歩くといたるところにウラン弾のアルミ合金のさやが転がっている。舗装道路のアスファルトを貫通した砲弾は痕跡を残すが、砂地に打ち込まれた砲弾は痕跡を残さない。毎日のように発生する砂嵐で、いずれアルミ合金のさやも砂の下に埋まってしまうだろう。すでに証拠はかき消されつつある。
2000年にセルビア軍が地下から掘り出したウラン弾が、錆びたように表面がざらざらしていて、太さが半分近くにまで減っているのを見せてもらったことがあった。写真を撮ってこなかったことが悔やまれてならない。ウラン金属は地下で水と反応して水和物となり、水溶性のウランとして土壌と地下水を汚染する。砂漠にわずかに生い茂る草を羊が食べ、その乳を飲んで子供たちは育っていく。ウランが生態系の循環に組み込まれていくことになる。ウランは半減期45億年の放射性毒物であると同時に、重金属の毒性をも備えていると考えられている。ウランは崩壊の過程でラジウムやラドンなど多様な形態をとりながら循環の環の中をめぐり続けることになるのだろう。その出発点がこの道路にあいた無数の孔である。
工場長の言うとおり、一つや二つの弾頭を、苦心して掘り出すことに、意味はない。
バスラ母子病院
5月27日の午前中、私たちはバスラ母子病院を訪ね、ジャナン・ガリブ・ハサン(Dr.Janan
Ghalib Hassan)さんの案内で小児がん病棟を見せていただいた。彼女は一人一人の子供たちのベッドをめぐりながら手際よく明快に病状を説明していく。子供たちにカメラを向けると、付き添っている母親は子供の衣服をたくし上げて、大きく膨らんだがんの部位を見せてくれる。片方の眼球を失った少年はにこっと笑って私を見る。私がチェルノブイリに通っていた頃、ミンスクの病院で同じような子供たちに出会ったことを思い出した。その頃の私は、その子供たちにレンズを向けることができず、カメラをかばんの底にしまっていたことを思い出した。
余りの光景にメモも取らずひたすらカメラのファインダーから子供たちを見ていたので、正確な患者の数は分からないが、20人以上の症状の重い子供たちがいたように思う。白血病、甲状腺がん、腎臓がんの子供が多かったように思う。91年の湾岸戦争と呼ばれている第一次イラク侵攻のときに、米軍は始めてウラン弾を実戦で使った。攻撃はイラク南部に限定されていたため、南部のバスラ州に小児がんと先天的障害を持った子供たちが増え始めた。ヤナンさんは回診を終えてから私たちを彼女の研究室に招きいれ、この病院で生まれてきた子供たちの写真を見せてくれた。その全ての子供は、すでに亡くなっていた。広島で、チェルノブイリで、これまで起こってきた悲劇がここでも繰り返されていた。彼女からいただいたデータをグラフにしてみると、子供たちのがんの発生数は98年頃から急増し、昨年は突出して増えていることがわかる。そして今年、前回をはるかに上回る規模で、イラク全土にウラン弾が打ち込まれた。これから何が始まるのだろう。
子供の墓地
バスラ市内の一角に不思議な空間がある。軍事的理由でわれわれはバスラの地図を入手することができなかったので、正確な場所がわからないのだが、その広場には大小数千の土饅頭がひしめき合っているのだ。前回の侵攻のあとたくさんの子供が亡くなり、その遺体を埋めた場所だという。人の大きさの粗末な土饅頭にコンクリートモルタルをかぶせて白いペンキを塗ったものが多いが、土を盛り上げただけのものも少なくない。一人一人の子供の名前であろうか、モルタルに刻み込んだり、文字を書いた立て札が立っていたりする。そのひしめき合った土饅頭の合間に、ほんの50センチほどの長さの小さな土盛りを見ることができる。その大きさから、生まれたばかりの新生児か死産した胎児であるように思える。その本当に小さな土盛りのモルタルに、母親が刻んだのか、姉や兄が刻んだのか、草花が一杯に掘り込まれている。
シーア派の死者はすべてバスラから北西に400キロほど行った聖地ナジャフの墓地に埋葬する慣わしで、そこには世界最大の墓地があるのだと運転手は語った。ここはナジャフに埋葬するまでの仮の墓地なのだが、貧しくて遺体を運んでいくことができない場合や、子供をいつまでも手元においておきたい母親の願いで、ここに長い間埋葬されているのだという。
子供たちの墓地群の傍らに新しい大きな土饅頭がいくつも作られていた。今次の戦争で亡くなった市民や兵士の遺体が埋葬されているとのことだった。真っ黒な布を頭から被った母親が、その真新しい土饅頭に取りすがるようにして、いつまでもいつまでも声を上げて泣いている姿に、胸が締め付けられる思いがした。若い息子が死んだのだと、付き添っている父親が話してくれた。
バンカーバスター
バスラでの調査を一日で切り上げて、28日の午後に私たちは再びバグダッドに向かった。600キロの道のりを往還するだけで、二泊三日の旅であった。私にはもう一つ確認しておかねばならないことがあった。
バスラに向かう前に私たちはバグダッド市内の高級住宅地であるマンスール地区でバンカーバスターによるクレーターの調査を行なっていた。サダムが潜んでいるという密告により攻撃を受けたもので、巻き添えで10人の市民が殺された。その巨大な孔のそこまで降りていくと、放射線量が0.90マイクとシーベルトを越えることが確認された。この地域のバックグラウンドの1.5倍前後である。しかし、数値は激しく上下してこの値が本当に有意の差であるのか、自信がもてなかった。
29日、私たちはバグダッド市内のバンカーバスターによるクレーターを求めて市内を走り回った。いくつかのクレーターには水がたまっていて、中にはおたまじゃくしが泳いでいるものまであった。最後にたどり着いたのはバグダッド市の東の外れにあるラシッド(Rashid)イラク軍基地の中であった。そこには少なくとも3か所のクレーターがあり、水没していない二つのクレーターの底まで降りて放射線の測定を行なうことができた。もっとも、私の体力の損耗が激しく険しい崖を降りる気力はなく、島ディレクターに測定器を渡して測ってもらった。その結果、2つのクレーターで全く同じ反応が出た。両地点で0.1マイクロシーベルトを上回る値が計測され、バックグラウンドの0.06マイクロシーベルトに対して明らかに有意の差があることが確認された。
私の仕事は終わった。取材チームは市内の映像を求めて活動を続けていたが、私は、午後にはホテルのベッドに倒れこんで時を過ごした。昼間であるにもかかわらず、窓の外に数発の銃声が響いたが、私はそのまま眠り込んでいた。連日、気温は40度を超え、幸いにしてペットボトルに入ったミネラルウォーターはどこでも手に入るので、水分の補給には問題がなかったが、水分は体表から汗になる前に蒸散し、尿は全く出ようとしない。我々の調査は、連日徹底して野外で行なわれたことが、相当身にこたえているようだった。バグダッドを離れる日、シーア派の聖職者による大規模な米軍に対する抗議デモが行なわれた。聖地ナジャフが米軍に占領され、聖職者が連れ去られ監禁されたことに、激しい怒りをあらわにし、米軍の即時撤退を求めていた。
バグダッドには不穏な空気がみなぎっているように思われた。占領軍に対する敵意は時間とともに民衆の中に浸透し、組織化され、ゲリラ化するのは必然のように見える。連日の米軍に対する攻撃は、米軍が言うようにサダム残党にのみよるものではなく、スンニ派とシーア派の境界を越えたものであるようにも見える。今後の情勢の悪化は目に見えている。このような場所に、米軍の支援部隊として軍服を着た日本軍が現れれば、それは格好の標的になるに違いない。兵士は単なる消耗品だからと、軍の首脳は考えているのであろうが、問題は民衆レベルでこれまで積み上げてきた医療支援活動の続行が困難になることである。日の丸を掲げた軍隊に対する敵意は、現地で活動する日本の市民運動のメンバーに向けられる可能性があるからだ。
スミヤテスト
帰国後、古川路明氏を介して金沢大学日学部の低レベル放射能実験施設の小村和久氏を紹介され、バグダッドの戦車の内部をふき取った濾紙と、バスラ郊外の製氷工場の床に散乱していた黒い粒子状物体についての測定をお願いすることになった。小村さんの実験設備は旧尾小屋鉱山のトンネルの中にあり、ゲルマニウム測定装置が十台も設置されており、世界でも最も精度の高い測定のできる施設であった。
測定の結果、ウラン系列以外の放射線は観測されず、いずれも純粋なウラン酸化物であることが確認された。製氷工場の床に散らばっていたのは、床の鉄板を斜めに貫通したときにウラン弾が鉄板にこそぎ落とされたウラン金属そのものであったことも判明した。
測定の結果、ウラン235のウラン238との比は、天然ウランの場合0.720であるのに対し、破壊された戦車(バグダッド郊外)の内部をふき取った試料では0.186、バスラの製氷工場の試料では0.207であることが判明した。原子炉の燃料を製造する濃縮工場は、0.7%のウラン235を3.5%程度まで濃縮するが、そのとき劣化ウラン側には0.2%程度のウラン235が残留することが分かっている。今回の2つの試料はその値と見事に一致している。今回の米軍と英軍によるイラク侵攻で使われたのは、原子力発電用の燃料製造過程で派生した劣化ウランが使われたことが確認された。
このことは、イギリス政府やアメリカ政府、そして日本政府がどう言い逃れをしても、覆すことのできない事実である。
イラク支援特措法衆議院特別委員会に参考人として
アフガン戦争犯罪民衆法廷の公聴会が6月15日に広島で開催され、私は証人としてイラクの最新情報を報告した。帰国後初の現地報告であった。現地の写真と測定データを組み合わせた報告は参加者によく理解されたようだ。6月21日には慶応大学日吉で、エントロピー学会横浜セミナーの企画で報告会を開催した。インターネットのメーリングリストでそのことを公表した結果、会場には140人ほどの参加者があった。
国会ではイラクに自衛隊を派遣する法案が審議されていた。社民党外務委員会から招聘を受け、6月24日に議員会館で広島で行なった報告を再度議員の皆さんに聞いてもらった。社民党はこれまでもウラン兵器には関心を持ち続けてきた。その社民党の依頼を受けて、7月1日に開催される、衆議院イラク支援特別措置法(正確には、イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法)特別委員会に参考人として招致されることになった。委員長は高村正彦である。当日は、自民党、公明党、保守党、共産党、社民党から推薦された、前川清(元防衛庁防衛研究所副所長)、池田明史(東洋英和女子学院国際社会学部教授)、大野元裕(株式会社ゼネラルサービス取締役統括本部長)、松田竹男(大阪市立大学教授)の諸氏とともに、10分間の意見陳述を行なった。
私は、ウラン弾がイラク各地で実際に使われたことを、写真を使って証明し、バスラの病院の子供たちの現状を紹介し、日本は軍隊を派遣するのではなく、バスラとバグダッドに小児がんセンターを建設すべきことを主張した。私の発言の公式な速記録を参考資料として文末に転記し、あわせて国会における閣僚のウラン兵器にかかわる発言を転記する。他の証人の発言は衆議院のウェブサイトで読むことができる。イラク特措法はその3日後の7月3日に委員会で強行採決され、4日には衆議院を通過し、26日未明の参議院の採決により成立した。
8月に入ってイラクにおける英米軍へのゲリラ攻撃は激しさを増し、8月19日には現地の国連本部が爆破されるまでに拡大している。米軍の兵士の死者は、5月の戦闘行為終了宣言以後50人を越えるといわれているが、イラク市民の死者は毎日数十人に達するとの報道もある。ウラン弾の回収が行なわれる見通しもなく、未来の子供たちの運命が政治に翻弄されている。
この事態に連動して、小康を保っていたパレスチナへ、大規模なイスラエル軍の侵攻が再び始まった。1000年前のキリスト教徒による大規模なイスラム世界への侵攻作戦の末路を思い起こす必要があるのかもしれない。専守防衛を基本とする日本軍(自衛隊)が、この戦いに巻き込まれることの大義が問われねばならない。 (2003年8月20日)
■ 資料1 イラクにおける放射線測定データ(2003,5.19〜6.2、藤田祐幸)
@BKG(BAGHDAD,ZAWRA PARK)(2003,5,23)
3地点10回測定 平均 64.1nSv/h
A計画省裏庭(BAGHDAD、KARADAT MARYAM)(2003,5,23)
劣化ウラン弾7発(測定時5発、後に2発発見)、さや30発以上発見
ウラン弾 1発 6.85μSv/h BKGの約100倍
ウラン弾 5発 23.45μSv/h BKGの390倍
B被弾戦車(BAGHDAD,MAHMUDIYAH)(2003,5,24)
被弾戦車1台発見
第一貫通孔外部 885.8 nSv/h BKGの13.6倍
第二貫通孔外部 130.1 nSv/h BKGの2.03倍
第二貫通孔内部 1.56μSv/h BKGの24.5倍
Cバンカーバスター(2003,5,25(Mansur)・29(Rashid)) (およそ直径15m,深さ7m)(6件調査、2件水没、1件不検出)
BAGHDAD MANSUR地区 約90nSv/h
BAGHDAD RASHID基地 第一クレーター 105 nSv/h
第二クレーター 100 nSv/h
(クレーター底部では周辺地域のBKGの約1.5倍以上の有意の差あり)
D被弾戦車(BASRAH,ABU AL KHASIB)(2003,5,27)
被弾戦車4台発見(調査車両は7台)
第一戦車 716 nSv/h BKGの11倍
第二戦車 669 nSv/h BKGの10倍
第三戦車@ 211 nSv/h BKGの3.3倍(出口孔)
A 1.25μSv/h BKGの19.5倍(入口孔)
第四戦車 540nSv/h BKGの8.4倍
E製氷工場(BASRAH,ABU AL KHASIB)(2003,5,27)
床第一貫通孔直上 1.09μSv/h BKGの17.0倍
第一貫通孔周辺 2.88μSv/h BKGの45.0倍
床第二貫通孔直上 1.52μSv/h BKGの23.7倍
■ 資料2
「イラクにおける人道復興支援活動および安全確保支援活動の実施に関する特別措置法」衆議院特別委員会議事録(抄)(2003年7月1日)